商品は、2015年にF-TOYS(エフトイズ コンフェクト)から発売された『1/2000 艦船キットコレクションvol.6 スリガオ海峡』から『02.戦艦 扶桑 B.洋上Ver.』になります。
日本初の超弩級戦艦にして完成時には世界最強! それが扶桑型戦艦!
扶桑と山城は新造時は同じような姿だったのですが、扶桑は第1次改装の際に弾着修正用の観測機のカタパルトを第3砲塔の上に配置した為、第3砲塔の位置が後ろに下がり、主砲が前向きになってます(山城は後ろ向きのまま)。
その後、第3砲塔上のカタパルトは撤去され、延長された艦尾に移されたのですが(山城は最初から艦尾カタパルト)、扶桑の主砲の向きはそのままでした。
で、主砲の上のカタパルトにぶつからない様に避けて艦橋を大型化した為、艦橋後部の基部が小さく、扶桑の艦橋は凄くアンバランスな形をしています。
第3砲塔の向きと艦橋の形が扶桑と山城の大きな違いになります。
◆趣味の扶桑型戦艦
明治39年(1906年)に就役したイギリスの『ドレットノート』は、30.5cmの大口径連装砲を5基搭載し、従来の戦艦を凌駕する画期的な戦艦でした。
ドレットノートの登場により、各国が保有する戦艦は一気に旧式化し、世界各国はドレットノートに対抗出来る大型戦艦、超ドレットノート級(略して超弩級戦艦)の建造に邁進します。
日本も超弩級戦艦を作りたかったのですが、当時の日本の技術では、大口径の主砲を複数搭載した超大型戦艦を作れませんでした。
そこで35.6cm砲を搭載した超弩級巡洋戦艦『金剛』をイギリスに作って貰います。
巡洋戦艦とは、戦艦の火力を持つけど、装甲は薄く、高速・大火力・紙装甲な軍艦。巡洋艦より強いけど戦艦より弱いという位置付けの艦です。
で、金剛をベースにして、日本で独自に設計・建造した最初の超弩級戦艦が『扶桑』になります。
完成した時点では、世界最大・最強の戦艦でした。
・・・まあ、失敗作なんだが(日本初なので仕方が無いのだけど)。
火力は35.6cm砲12門で金剛の1.5倍の火力です。
二連装の砲塔を6基持つのですが、この当時、三連装砲塔を作るのは技術的に難しく(日本戦艦で三連装砲塔は最後に作られた大和型のみ)、金剛と同じく二連装砲塔になりました。
金剛とほぼ同じサイズの船体に6基の主砲を配置した為、艦首から艦尾まで均等に主砲が並んでます。艦首に2門、艦橋と煙突の間に1門。煙突と後部指揮所の間に1門。艦尾に2門。
この主砲の配置が致命的でした。
まず主砲が艦首から艦尾まで満遍なく存在するため、艦全体を装甲せねばならなくなり、重くなりました(重くなると遅くなる)。
更に第2砲塔と第3砲塔の間に艦橋があるため、主砲を一斉発射すると、砲煙が艦全体を覆い、爆風が艦橋を襲い、弾着観測出来ないとゆー。このため、命中率の悪い戦艦になってしまいました。
また船体の設計にも問題があったらしく、まっすぐ進まない戦艦でした。右や左にフラフラと・・・。操舵がとても難しかったのだそうです。
第1次世界大戦後に金剛型に続き、扶桑型戦艦も近代化改装されました。
近代化改修で機関を石炭から重油型に換装した結果、金剛型では機関出力が倍以上になって高速戦艦にレベルアップしたのですが、扶桑型は機関を重油型に変えたけど出力は向上しませんでした(航続距離は伸びたのだが)。
新造時の扶桑型は艦橋の真後ろに煙突を持ち、艦橋の真下に第1機関室があり、艦中央部の第2煙突の真下に第2機関室がありました。何でかというと、第1機関室と第2機関室の間に第3砲塔があったから。
ので、艦橋の真下の第1機関室は廃止され、その場所には重油タンクと士官室が置かれました(※居住性は良い扶桑)。第1機関室が無くなったので第1煙突も撤去。
第2機関室の缶(ボイラー)を石炭から重油に変えるだけで、これまでと同じ機関出力が出せる為、第1機関室は無くても良いか。みたいな感じです。
第3砲塔を撤去して、第3砲塔の弾薬庫の場所まで機関室を広げれば、金剛型同様に出力倍増&高速戦艦化が見込めたのですが、大艦巨砲主義の日本海軍が主砲を減らすはずもなく。
また、主砲の仰角が引き上げられ、射程が伸びました。それに伴い、測距儀を高い位置に上げる必要が出た為、三脚マストの艦橋に、次々とフロアが設置され、パゴダマストになりました(この時代の艦橋は箱型構造物ではなく、三脚艦橋)。
扶桑は、艦橋がアンバランスな感じですが、これは第1次改装後に、第3砲塔の上にカタパルトを設置。艦橋の基部にカタパルトが当たらないように、カタパルトよりも上にフロアが重ねられただけなので、艦橋のバランスが悪いわけではありません(見た目はアンバランスなのだが)。
第2次世界大戦が始まるまでは、長門・陸奥に次ぐ主力戦艦の座にあった扶桑型ですが、開戦後は、もっぱら瀬戸内海で訓練戦艦の役目を果たしてました。
なぜならば、扶桑型は日本海軍の戦艦の中で最も遅かったから。
艦隊行動をする時は、艦隊の全艦が、最も遅い艦に速度を合わせます(そうしないと艦隊がバラバラになるから)。
扶桑型を艦隊に組み込むと、艦隊全体の速度が遅くなり、文字通り、他の艦の足を引っ張るとゆー・・・。
真珠湾攻撃の時の日本近海の哨戒とミッドウェイ海戦の時は出動しましたが、特に何もしてません。その後は遅くて他の艦と艦隊行動を組めないので、練習戦艦に回されました。
扶桑型唯一の戦闘となるのが昭和19年10月の捷一号作戦(レイテ沖海戦)です。
扶桑型は遅いので、主力の栗田艦隊に入れず、扶桑・山城・重巡『最上』・駆逐艦4隻の7隻だけで西村艦隊を組み、レイテ湾までの最短ルートである南のスリガオ海峡を抜けてレイテ湾を目指しました(遅いので最短ルートじゃないと他の艦隊と突入タイミングが合わないから)。
しかし、西村艦隊を迎え撃つ米艦隊は戦艦6、重巡4、駆逐艦26、魚雷艇37隻という大艦隊で、全く勝負にすらならず、扶桑は駆逐艦から4本の魚雷を受けて大破炎上後、真っ二つに折れて沈みました。
なんか、こう、最初から最後まで全く良い所が無いよーな気が・・・不幸だわ・・・。