1950年代後半 - 1960年代
1959年、ドン・ウィルソンとボブ・ボーグルのギタリスト2人により結成。結成時は「ジ・インパクツ」を経て「ヴァーサトーンズ」と名乗っていたが、すでに使われていたため、ドンの母親であるジョシーからの提案によって「ザ・ベンチャーズ」と名乗るようになる。当初の演奏スタイルは、リードギターとリズムギターを曲によって交代するギターデュオで、ドラム、ベースなどはいなかった。結成前、ドンは自動車のセールスマン、ボブは昼間に建築業をしていた。ボブがドンに仕事を紹介し、一緒に仕事をするようになり、夜にはナイトクラブに出演してキャリアを積み、音楽関係の人脈を築き上げていく
[4]。またこの頃から既に
フェンダー社製の
ストラトキャスター、
ジャズマスターを主に使用していた
[5]。後にベーシストにノーキー・エドワーズ、ドラマーにジョージ・バビットをメンバーとして迎え入れた。しかし、ジョージは当時未成年でナイトクラブでの演奏が許可されずデビュー前に脱退し、後任としてホーウィー・ジョンソンが加入する
[6]。 デビュー曲は「ブルー・ホライズン」レーベルからリリースした「ザ・リアル・マッコイ(The Real McCoy)/クッキーズ&コーク(Cookies & Coke)」である
[7]。続く
1960年発売の「急がば廻れ(ウォーク・ドント・ラン)」でドラムは、スキップ・ムーアというクラブミュージシャンが担当し、ノーキーがベースを弾いている。地元シアトルのラジオ局がニュース番組のテーマ曲として起用したことから火が付き、米メジャーデビューを果たす。瞬く間に
ビルボード誌のシングル・チャート第2位を記録した
[8]。「急がば廻れ(ウォーク・ドント・ラン)」は、メジャーレーベルのドルトン・レコードから再発売されている
[9]。
1962年、ホーウィー・ジョンソンが交通事故に遭い、後遺症が残ったことからツアー同行が難しくなったため(
脊椎損傷が原因と言われている)、ジョンソンの脱退後、後任ドラマーにメル・テイラーを迎えた。1960年代全盛期の4人が揃うことになる
[10]。また、メルの加入以前にリードギター担当がボブからノーキーに交代しており、それは元バック・オウエンスのバンドメンバーとして、既にギタリストとしてのスタイルを完成させていたノーキーに任せた方がバンドの将来にもいいだろうとのボブの判断による交代で、ボブ自身もベースの楽しさ、自由さに開眼したことも理由に挙げていた。ノーキーも後のインタビューで、「ボブがリードギターを担当しているのはせいぜい数曲だろう」と発言している。また、スタジオ・ミュージシャン時代の
レオン・ラッセルもレコーディングに参加し、「テルスター」でオルガン
[11]を、「朝日のあたる家」ではオルガン・ソロを、「十番街の殺人」ではサックスソロ(アルトサックスの音をレズリースピーカーから出す手法)を演奏した。この時期、ドラマーのメル・テイラーは
ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスの1stシングル曲「悲しき闘牛/the lonely bull」に参加している。セッション・ドラマーの
ハル・ブレインは自分が演奏したと自伝の中で主張しているが、それは同タイトルのアルバム収録曲の方である
[12]。
初来日は1962年5月、ドンとボブの2人は
オーストラリアや
ニュージーランド、
アメリカ、
香港、
フィリピンをツアーした後に来日し、東芝音楽工業(のちに
東芝EMI)のイベントに参加した。ウッドベースとドラムは日本人が担当し、ボブの回想によると「別に悪いミュージシャンではなかったが、ビートの感覚が違っていた」と語っている。(この時米軍基地への慰問演奏なども行った記録が残っている
[13])。なお、同時に来日したのは
ボビー・ヴィー(後に共作のアルバムをリリースする)、ジョー・アン・キャンベルであった
[14]。ベンチャーズが日本で人気が出たのは2回目の来日(
1965年1月、
アストロノウツなどとのパッケージツアー)で、ドン、ボブ、ノーキー、メルの4人で行った日本公演からであった
[15]。彼らは専用ギターである、
モズライトのギターを
真空管アンプにプラグ・インする事によって生み出されるラウドかつ強烈なサウンドで、たちまち日本の若者たちをとりこにし、日本に於いて一大
エレキ・ブームを巻き起こした。特に、ベンチャー歌謡という名称で知られる和泉雅子、山内賢の「二人の銀座」、渚ゆう子「京都の恋」、欧陽菲菲「雨の御堂筋」、渚ゆう子「京都慕情」などはベンチャーズの曲である
[16]。京都慕情は日本語で歌うことを前提として作曲されている。