【複刻に当りて】より
この本の内容は、いまはあの世に籍を移しております宇佐美梧子を媒体として、あの世の人々と語りあったことが主眼となっております。すでに二十五年も以前のことですが、複刻に当って内容に目を通して見ますが、大きな間違いはないようですので踏み切りました。しかし記事の中に見られる人の中で、鬼籍に入られたお人もありますので、それだけは御承知願いとう存じます。回顧すると五十五、六歳ころの執筆であります。
【目次】
生活を楽しむ心
霊界入りの切符
これが人生道中
祖霊に導かれて
救われる吾等
若き妻を残して
幼兒を遺して
再び執着の淵に
物慾に捉われる霊
すてがたき妙機
求道者に追われて
心霊学から見た地獄極楽
【序文より】
わたくしは源條のころ鎌倉に生れ、実朝卿に侍べりしものなるが、卿の急変を知りその仇討つべしと、心に定めたりしが、心の主に教え諭されて、その心を深め、ほど経て伊勢国の鈴鹿の山のほとりに庵結びて、身を修めるほどに、致へる人ありて、卿の祖神に縁あさからぬ社のありて、それが社に仕えまつることとなりぬ。ここに七十路あまり神仕えして、身まかりし後は、ひとえに心を深め、あり來し方をかえり見ては、心を修むろかてとなし、いまようようにして某のをかりて、わが想いのはしぐを記さしむることとはなりぬ、さても長き月日なれど、また一時のごと夢のごとき心地して楽もしきことにてありき。本書を記すに当りて、奇しき縁に結ばれしわが御護りの霊の御言を記して序とす。
【各章のはしがき】より一部紹介
生活を楽しむ心
筆者が戦後最初に出版したものは"あなたは幸福になる"と云うパンフレットでしたが、初版はまたたく間に品切れとなり、今日では三版が少々残っている程度であります。
人生が幸福になる時、すなわち幸福感を体得するときは、自分の不幸の原因が判ったときであります。このことを知らずに、我欲を満たそうとするところに矛盾が生れて参ります。本書は自分がなぜ不幸なのかと云う真因を掴んでもらうために、今日まで私が直接応対した人達の因縁を調べたものを、ここに掲げて参考に供したわけである。世の中のすべことは、原因があり結果のあるものであります。その原因を知らずに、結果のみを見ると悩みの種となる時があります。この点を理解して貰うことが明期に世渡りする鍵になるのではありますまいか。
霊界入りの切符
本著書の別篇"天地玄霊教団と亀岡"を書き終った昭和二十六年五月十日夜、静かに寝につくと、私は何時のまにか幽界と霊界との中間ともおぼしきところを歩いていた。暫くゆくとは空間に浮きあがって、その周囲の状況が手に取るように見えるのである。或る広い荒野に、人間の背丈の二倍位の高さの饅頭型の山が無数に並んでいるのである。するとその饅頭山と饅頭山の間を、人間がとぼとぼと歩いている、或る者は早く、或る者は前の山に行き当る度に、右するか左するかを考えている、従つてその歩みは遅いそれを私は上方から見おろしているが、それが何処であるかに思い到らなかつた、この景色は凡そ二時間も続いていた、時計が二時を打つのが聞こえて来た、その時こは幽界と霊界と境界であると数えられたのであります。
祖霊に導かれて
一刻前の霊媒の言動と、一刻後の霊媒の言動とは、その所作となく、物語る言葉は同一の人であつても、そこに述べられる事柄は言わずもがな、その行動をしている主人公は異る場合があります。すなわち霊媒は、霊界人から送られる念波を感受して喋り、その念彼のおもむくま、に行動するからであります。これと同じように、われわれも時と場合によりますと、自分自身でも判断のつきかねる事を行つたり、喋ったりして、後悔することがあります。不可抗力と申すことがあるが、われわれも時々そうしたことに遭遇することがある。これは果して誰がするのか、今日(昭和二十六年五月十五日)はよい実例を見出したのでそれを筆に止めておくことにする。本篇はその実話である。
救われる吾等
私はどうしてこれほど運が悪いのでしよう。私の友達はみな成功しておいでになるのに私はどうしてこれほど失敗ばかりしているのでしよう。と嘆かれる人がありますが、その不幸、不運を悟られたことは、すでに幸運えの手がかりが出来た証拠であると思います。子供の遊びの善悪は、子供自身には判らないが、青年や大人がみるとよく判断がつくものです。青年の遊びの善悪は青年には判るまいが、老年の人はよくわかるものです。そのように自分の不幸が目についた時は、その不幸から自分自身がぬけ出た時なのです。不幸の原因を知り、その因縁が判れば最早や苦しむことはない、その解除に努め、またそうしたことに遭遇した時に先亡の苦悩に同情する気持が、やがては幸福えの動機となるものです。今日はそうしたお話を一つ…
若き妻を残して
人間はその死後にも、また一つの生活があるということは、これまでいろいろの出版物でも発表してありますが、その一つ一つの問題についての説明には欠けている場合が少くないので、今度この冊子でその不備を補うことになりましたが、前篇で若き妻を残して逝つた先亡の話が出ていますが、故あつてその内容を発表を避けました。しかしこのことは万人の知つておくべき事でもありますので、幸い筆者の手許に、それに相当するものがありここに掲げることにいたしました。これは筆者の甥であつて若き妻を残して逝った青年ですが、霊媒修行中に、愚妻に憑依して来たときの対話鉄であります。参考になれば望外の幸甚であります。
幼児を遺して
霊相道話の第四巻に"十七人目の魂"と言うのがあります。これは一人の気の毒な同志の死後における様子を綴ったもので、霊界の事情を知るには、よい参考書でありますが、この霊が再び憑依して来て再度執着の淵に陥らねばならぬ結果を招来したのであります。やさしいようで困難なのが霊界の修行であります。現界は全く他力の世界、誰かの世話にならねば生きられぬ世の中ですが、霊界は衣食住の心配のない代りに、全く自力で進まねばならぬ世界であります、見るもの聞くもの、すべて悟りの種であります、この妙機を悟らずに再び執着や恨怒の世界に引き入れられる先亡もあるようです。本書はその気の毒な方との対話であります。霊媒は愚妻であり、審霊者は筆者であります。
物欲にとらわれる霊
死者の執着にはいろいろあります。子供の愛、妻への愛情もその一つで、その実例は前章でも述べた通りでありますが、向生前と同様に酒色を求める霊もすくなくないのであります。酒癖のある人の背後には、その人を利用する霊界人がいるためであります。呑んでも呑んでもすこしも酔わない酒呑みの背後には、酒ずきの霊界人があつてその酒の霊気を蔭から吸っているためであります。また食っても食つても食い足りないのは食に飢えた霊界人のなすわざであります。ここに掲げた例は恥かしいことですが、私の父の霊のその当時の告白であります。この人は当時まだ生前の食慾を忘れることが出来なかつたようであります。亡父の罪ほろぼしのためにここに霊媒修行の一端として、揚げることにいたします。
捨てがたき妙機
本書をこまでお読みになつた方は、われわれの毎日の生活が、どの程度までが自分の領域で、どこからが憑依霊のしわざであるかの判断に困られること思います。それほど霊界と現界は近い距離にあり、また不即不離のものであるかと判ると思います、案外自分自身の計画であると思つていたことが、背後の後援者の助力で成功している場合のあるように、われわれの日常にも常に霊界から御支援があるのであります、私ども夫婦は或る重大な目的のために霊媒の修行に取りかかったのでありますが、このことはやがて祖霊の計画であり、このために祖霊の浄化が出来たことを後ほど霊界から、漏らされた事があります。この章は本書の眼目をなすものであります。
求道者に追われて
体験を持たぬ者の信仰談、ことに方便的な宗教の教えは、世の中の人々を誤まらしめるだけで、何の益もないことであります。萩原真氏の霊界物語りの中には、或る法主が、死後求道者に取りすがられて難渋していると言うことが出て居ります。世の中に数多くの宗教家がいるが、彼等は果して、信仰に対する体験を持つているであろうか、若し体験なくして道を教えたもの、信仰を強いたものは、その死後どんな境遇に陥るだろうか、本書に掲げる話題は、かつて筆者の手で取扱った精神病者の背後にまつわる僧侶の話であるが、彼は信仰なくして道をひき、その罪によつて死後その救いを孫女に求めて来たのであります。關係者のみ実名を使用してをきます。
ほか
【著者について】
宇佐美景堂 霊相道実行会を設立、霊相道初代代表。
<主な著書>
聖域霊障解除縮地法 霊障因縁浄化要義―神法鎮魂応用篇 憑霊さばき 浮浪霊鎮魂法要義
老蘇女白狐奇譚―伝説と心霊 禁厭の神秘と祈祷 霊響 縮刷版 言霊学に映じたる神道 神話の中の実像の神 (神道玄兆録)
霊体結修秘典 霊界への架け橋〈第2部〉霊感は人間の潜在能力 数霊法運命鑑―日本言霊秘伝
現代に生きる天狗 伝説と心霊 幽冥秘境〈幽界の巻〉 権現信仰の回顧 水晶球で見られる霊像 ほか