書籍/良寛.を仰ぐ/名品を味わう-掛軸.屏風/生存中の評価.晩年のねせもの.没後の評価/贋作の見分け方-贋作.真蹟-署名比/掛軸/大愚.良寛/茶道 收藏
雅虎拍卖号:k1116654937
开始时间:01/09/2025 21:42:09
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■■『書籍』・・・■■ ●●『芸術新潮』・・・●● **”(1989年2月号)”** ■■『大特集』・・・■■ ●●『良寛を仰ぐ』・・・●● ―”生活も書も・自然体に生ききった・師・良寛 ”― **”約・70頁”** ★「良寛」・の書は・見る者の胸にじかに・しんしんと 何かを語りかけてくる。 生活も自然体ならその書も自然体・類い稀なる自然体 に生ききった師・良寛を学ぶ。 ★江戸末・越後の片隅に思想の人であったことを表す見 事な書 ――。 隠れんぼの間に眠ってしまったおろかな良寛さん―― それでいて勁い精神と不思議な足跡を遺した良どれも が他人の真似できない自然体の姿で形になる。 見る機会が少ない遺墨の逸品と良寛を生み育てた風土 から類い稀なる人の一端をたどる。 ■発行日=1989年2月1日。 ■発行所=新潮社。 ■サイズ=21×28.5cm。 ■定価=1000円。 ■状態=美品。 ●表紙に・多少のキズ・ヤケが有ります。 ●本誌内に・多少の・ヤケが見えますが ●大きな・ダメージは無く ●年代的には・良い状態に思います。 ◆◆注意・・・◆◆ ★発行日より経年を経て下ります。 コンディションに係らず・古書で有る事を 充分に御理解の上・御入札下さい。 ★神経質な方は入札をご辞退下さい・・!! ●全・160頁・・・!! ●大特集・「良寛を仰ぐ」・は・約70頁・・・!! ●『良寛似せ真似史』・・・● **”小松茂美・(古筆学研究所長)”** ★良寛の書は・いつ頃から評価されるようになったのか。 人気が高まるほどに・似せ物・贋作が横行するのも世 の慣い。 ―”良寛・生存中の評価”― ★良寛が生存中にどのように評価されていたかを物語る 文献がいくつかある。 橘茂世の・『北越寄談』・によれば、良寛は・「おさ なきとき時より書を好み・殊に能書なり・と評価され ている。 これは・良寛没前十年の書物である。 また・良寛は三十七歳のころ・土左高知の城外三里ば かりの庵室に止住していた。 たまたま・訪れた近藤万丈が室内にあった古詩の草書 を見た。 むろんこれは良寛の手になるものであった。 万丈は・『その草書や目を驚かすばかりなり』・と記 しとどめている。 これら二つの記録によって、良寛が早くも三十代半ば のころには、かなり能書として人々を驚かせていたか を察することができるのである。 次は文化二年に越後の出雲崎の僧、大忍和尚が出した ・『無礙集』・という詩集で・文化二年というと良寛 が四十八歳の時のことである。 その詩集の中で・大忍和尚は・良寛の作った詩数十首 見たといっている。 その詩句は修飾語を使わないで、たくまずして良寛の 気持が出ている。 そしてこういっている・「則・淵々乎として片章隻句 と雖も・非思量の思量より出でざるは靡し。 至道中の妙曲と謂つ可し」。 つまり良寛は、四十歳そこそこで詩人として非常に卓 越した才能を持っており・「至道中の妙曲」・とまで 評されたのである。 ★そうすると・良寛は三十代半ばから四十代に・既に能 書家として成り・しかも詩人としても非 常に卓越した才能をもっていたということがわかるわ けである。 また鈴木文台という良寛が学んだ漢学者は・その・『 草堂集』・の序文の中で、良寛は歌を詠んだり、詩を 作ったりして・その常を書きつけることをもって唯一 の楽しみとしていたと述べている。 また良寛は・こう言ったという。 「貧乏な私の好まないものが三つある。歌人の歌。書 家の書。料理人が作った料理」。 つまりプロの作ったものは好まないということ。 ここに良寛自身の・詩歌や書というものに対する考え 方がでている。 書家というものは・今の社会でも余り歓迎されない。 それに対して・たとえば・会津八一・平櫛田中梅原龍 三郎・奥村土牛・安田靫一・熊谷守一・沢田政広とい ったような人たちの書が非常に尊重される。 ということは・つまりその中に人間性というものがこ もっている・それを評価とするというわけである。 ★良寛の書には張旭とは懐素といった古代中国の能書家 たちの飄逸な味わいというものがこもっている。 また・和歌については・当時は・「古今集」・の尊重 が全盛時代で・「古今」・調の歌が評価されていたに もかかわらず・良寛は・「万葉集」・の影響を受けて いると当時から言われていた。 ある人が良寛に・「和歌を勉強するには何がいいでし ょうか」・と尋ねたら・「『万葉集』・をぜひ読みな さい」・と答えた。 その人が・「『万葉集』」・の歌は言葉が非常に古い ため理解しがたいのではないですか。 難しいですよ」・と反論すると・「あなたが自分で理 解するとおりの言葉をもってあなたの思うところを述 べれば・それて十分足りるではないか」・と言ったと いう。 ★当時・江戸には亀田鵬斎という儒者があり書架である 人がいた。 たまたま越後に行って良寛に会ったところが・良寛の 書を見て「神品だ」と称し・越後にいる間中たびたび 五合庵に良寛を尋ねて行った。 とにかく通俗の人間ではなかったと鵬斎は言っている。 江戸に帰った鵬斎は「私が良寛に会って草書の妙を悟 った。良寛の書を学んで自分の書の風格ができた」と 自負している。 実際・鵬斎の晩年の字には・良寛の影響がありありと 見てとれる。 「鵬斎は越後帰りで字がくねり」。 これは・越後へ行って良寛の感化を受けた後の鵬斎の 書が著しく変化したことをからかった当時の川柳であ る。 ★略・・・・・。 ―”晩年の・『ねせもの』”― ★さてこういう風に評価が高ければ・贋物が出てくるの も当然で・良寛の生存中からすでに贋物が出回ってい たようである。 良寛は晩年の5年間を島崎の庄屋・木村元右衛 門宅に 寄萬し・そこで74歳で亡くなっている。 天保元年・(1830)・73歳の10月頃から病気 になった。 良寛の書をめぐる、その年の12月に手紙がいくつか 残っている。 『北越雪譜』・を書いた鈴木牧之が、良寛に何とか字 を書いてもらいたいということで、福島花笑に唐紙を 渡した。 ところがなかなか書いてもらえなかった。 その花笑が鈴木牧之に事情を報告した12月15日付 の手紙が残っていたのである。 ★――つまり・最近良寛さまの筆ですよといって売り物 があるけれども・どうか軽々しくお買いにならないで ください。 ごく最近のことですが・山田杜皐という造り酒屋の主 人から・寒山拾得の讃と・唐紙一枚に書からた良寛さ まの詩を売り物だと言って持ってきたのだけれども・ 本物かどうかわからないので見てほしいと言ってきた。 で・飛脚を与板から島崎へとばして良寛に見せると・ 良寛は・「何れもねせもの」・と言った。 与板の山田さんのように良寛さんと親しい人でもそう いうことがあるのだから・あなたも絶対に売り物を買 ってはいけません。 良寛さんは病気でもう書けないから・あなたはこの短 冊一枚で辛抱してください。 つまり・良寛最晩年・病気で死ぬ前年のころには・す でに贋物が出回っていたことが・これでわかるのであ る。 ところで・この・「ねせもの」・という言葉であるが ・これは・越前の訛りで・「贋物」・のことであると 解釈している人があるが・私が調べたところによれば ・いささか異なる。 「ねせもの」・とは・「寝物」・と書く。 これは・「寝かし物」・と同じ意味である。 「寝かし物」・には・二つの意味がある。 一つは・使わないでしまっておくもの・あるいは用の ないもの・役に立たないという意味。 もう一つは、売れ行きが悪いため手元に置いてある商 品・要するにストック商品のことである。 『俳風柳多留拾遺』・巻十九に・「ねせものを売って 身代起き上がり」・という川柳がある。 こういうわけで・「ねせもの」・という言葉をそのま ま解釈すれば・だれかがたくさん良寛の贋物を作って 持っていて・それを売り歩いていたというふうに理解 してもいいのではないか。 良寛が・「これはねせものだ」・と言っているという ことは・単に贋物という意味だけでなく良寛の贋物を 大量に作る輩が当時存在したという意味になる。 したがって・良寛の晩年には・そういう贋作が出回っ ていたということがわかるのである。 ―”没後の評価の高まり”― ★さて・それでは次に・没後良寛がどういうふうな評価 を受けたかというかということにふれよう。 良寛が死んで四年後・天保六年五月一日の奥付けのあ る貞心尼の歌集・「蓮の露」・には、良寛の短歌九九 首・長歌一四首ほかが収められている。 その序文に・・・・・とある。 良寛の歌を鑑賞すれば・自分の心の中の濁りも清まっ ていくほど・良寛の歌というものは非常に高い境地に あるものですよ・と評しているのである。 良寛という人は一切歌稿を残さなかった。 紙に書いてはポンポン人に与えたりしたために・自分 で歌集や詩集というもの を一切編集しなかったので ある。 ただし、良寛が自分で詠んだ歌を書きつけた冊子本と いうものがないわけではない。 安田靫彦先生が持っておられた、『布留散東』・には ・短歌五四首・長歌三首ばかり・また・『久駕美のう た』・には・短歌一四首と・長歌九首ばかりが・書き ねてあって・それぞれの一冊本になっている。 ★国学者の林甕雄は、天保十年に編簒した・『寛禅師歌 集』・という写本には、短歌五四六首・長歌五〇首ほ かを収めている。 林甕雄は、良寛生存中に越後に行き、良寛と交わった。 この歌集は、自分であちこち歩きまわっつて、良寛の 歌を持っている人を訪ね、自らが書き写したものであ ると記している。 天保十年は、良寛の没後八十年。 だから良寛存命中に林甕雄はもう・『寛禅師歌集』・ というものの編簒を始めていたと考えられる。 次は慶応三年・上毛・(群馬県)・の蔵雲和尚という 人が・『良寛道人遺稿』・という本を出している。 それが印刷されたのは、明治元年か二年頃らしいから 、良寛の没後三十年にして、良寛の書き残した歌や詩 を集めた書物が作られていたということがわかる。 明治十二年、良寛没後四十九年には、越後の村山半牧 が編集した・『僧良寛集』・(出版人小林二郎)・が 出ている。 短歌九三首・短歌一四首。 その奥書に、良寛の書は・「温秀雅健」・であって、 歌をたしなむ者は良寛の歌を学べばよい、書を好むも のは良寛の書を学べばよい、と記している。 さらに続けて・「真贋相混」・とある。 すまり明治十二年頃には、良寛の書というものが非常 に評価されており、しかもその頃すでに本物と贋物と が入り混じっていたというわけである。 これが印刷物としては、一番最初の良寛歌集である。 ★以後、越後では明治から昭和にかけて、数種の良寛の 歌集が発行されており、時代を追うごとに良寛の歌の 数はふえていった。 大正三年・西郡久吾編・『北越偉人・沙門良寛全伝』 ・には、短歌が五七二首も収録されている。 そうした良寛評価が中央に波及した最初の記録が、大 正四年の夏目漱石の日記である。 それには、「良寛の書七絶聯落、越後柏崎の在にある 旧家より出しもの」・を買ったとある。 「聯落」・は紙の大きさで、全紙の四分の三。 「良寛はきに入ったものには沙門良寛とかき猶好きも のには越州沙門良寛とかきし由」。 署名の仕方によって良寛の書いた時の気持ちがわかる のだということを漱石は誰からか聞いたのだろう。 「田崎良寛といふは良寛在世の頃より偽書家にて良寛 通りの書をかきし故人其姓田崎の下に二字を加え偽筆 に会えば是は田崎良寛かと訊くといふ」。 ところがさらに、「田崎は間違。島崎良寛。島崎とい ふ所にゐたる故にしかいふとなり」・との加筆がある。 つまり、良寛在世の頃に贋物書きがいて、その人が島 崎という所に住んでいたので、その贋物を・”島崎良 寛”・と呼んだというわけである。 また・「良寛の屏風ならば立派なものに書きしかど、 托鉢の序など書いてもらふ時はあり合せの紙など継ぎ て気の変わらぬうちに書いて貰ひし由。 夫故美濃紙を横に継ぎたる如何はしき紙に書きたる方 が却って本物の場合多しといふ」。 ありあわせの美濃紙を継いだりして書いたものの方が かえって本物の場合が多いということも漱石は聞いた のだろう。 漱石夫人の思い出話によれば、「そのころはまだ良寛 熱の盛んにならない前のことで、三十五円か」・なに かで買ったという。 大正七年には、越後の相馬御風が本格的な・『良寛和 尚詩歌集』・を刊行している。 その中には短歌七一〇首、長歌・旋頭歌など全部合わ せると八一八首が収められており、この短歌が、世の 中に良寛の歌や詩を広めていく上で決定的な役割を果 たすことになるのである。 ★さて次は、安田靫彦先生から聞いた話だが、先生のと ころに越後の人が訪ねてきて・「絵を描いていただき たい、ところが私にはお金がないから、わりにこれで お礼をさせて下さい」・と言ったと。 それを見ると非常に立派な書なので・「とういう人か 」・と聞いたら・「良寛さまです」・とのこと。 それがきっかけで、良寛の書に心引かれるようにった と、先生は言っておられた。 そういうことで、大正から昭和にかけて良寛熱とうも のが次第に起こってきたのであるが、それはくまでも 良寛の歌と詩というものを通じながら、後の土地柄を 中心として良寛の書が尊重されてき経過なのであった。 ★名前を出すのもはばかれるが、日展の審査員であった 人が、平安時代の上代様の書に非常に心酔していたた めに・「良寛の書などというものは乞食坊主の書で、 非常に品の低いものだ」・というようなことを言った ことがある。 これは、昭和二十年代前半頃の話で、この頃には、ま だ書家の間では良寛の書がほとんど顧みられていなか った。 ところが、昭和三十年代後半以降、書家の中にも、良 寛風の書を書く人がふえてきた。 鈴木翠軒・西谷卯木・小沢神魚といった書家たちが、 良寛の書を非常に高く評価しており、書壇でも良寛の 書が見直されるようになってきたのである。 良寛の書は安田靫彦先生によって見直されたのだが、 小林古径も良寛の書を手習いしたそうである。 古径のお弟子さんから聞いたのだが、その人が安田先 生を訪ねて行って・「小林先生も良寛の書の練習をし ていらっしゃいますよ」・と言ったら、安田先生が仰 天して・「ああ、そうか。 どういうもので習っているのか」・と言って大変に関 心を示された。 良寛の書は自分独自の眼職によって再評価したいと思 っておられたのが、小林古径までが評価していると聞 いて、非常に驚かれたとのことである。 ―”贋作の見分け方”― ★良寛の筆跡の研究家に、越後の原田勘平という人がい た。 その人の言葉によれば、良寛の贋作は大別すると、国 上良寛・巻良寛・三条良寛・地蔵堂良寛・寺泊良寛・ 東京良寛・の九種類があるという。 これらは、いずれの贋作者の出身地の地名を冠しての 通称である。 ★筆跡というものは・個性を持っている。 筆跡の個性というものは、人間の顔が各人違う様に、 よく似た人がいても、それはあくまでも似ているとい うだけで、全く同じではない。 だから良寛でもない者が、いくら贋作を作ろうと思っ ても、手本を見ることなしに、良寛の書の形が頭の中 に入っていて、良寛に似せて書くということはできな いのである。 書道の上達は、模写ということから始まる。 手本を見て書く。 手本を見て書く方法には、写・臨・摸・搨の四段階が ある。 写は、そこにある文章をその内容だけ写す。 臨は、そばに手本を置いてそれを見ながら、手本に臨 みなら書いていく。 摸は、敷写し。 原本の上に紙を重ね、なぞって書く。 搨というのは、明るい窓に原本を重ね、さらにの上に 紙を重ねて、外からの光線に透かして克明に写す。 一口に写すといっても、こういう四つの段階があるわ けだが、書道の上達のためには、臨・摸・搨・この三 つを誰もが試みるわけである。 ★現在残っている良寛の贋作は、手本を見て書いた臨が ほとんどである。 中には模もあるだろうが、敷き写しの場合は、下に敷 いた手本に木をとられるから筆勢が出ない。 先に挙げた九種類の贋作も、良寛の書をそばに置いて 見ながら写したものが多い。 贋作というと、いかにも良寛にそっくりな書が書ける だけの技能に達した者が書いたと考えがちだが、実は そうではなく単に良寛の書を写したというにすぎない のである。 巻良寛だとか何とかいろいろあっても、そういう人た ちは初めは良寛の書を一生懸命学ぼうとして書いたに 違いなく、贋物を作ってやろうという気持ちはなかっ たのではないか。 初めはそういう気持ちで写したものを、後になってよ からぬ人間が表装に仕立てて売ってしまうから、贋作 になるのである。 ★良寛は肘を上げ、筆を真っすぐ立てて書く。 これを直筆懸腕という。 筆を真っすぐに立てて自由自在に書くからああいうふ うなスケールの大きなダイナミックな線が引けるので ある。 ところが手本を見て書く人は、見ようとするから線を 横に寝かせる。 筆管を倒して書いたものは、筆の穂の腹が出るので、 運筆の方法によって筆法にちがいができる。 穂先を筆端に出さないのが、良寛の書法である。 穂先があらわになっていれば良寛ではない、贋作かど うかはすぐに識別することができるのである。 また贋作にはうそ字がある。 誤字である。 読み取れない字がある。 必要な字画が抜けていたり、一本多かったり、また筆 脈が通っていなかったり、これは、何と買いてあるか ということを読むだけの素養がなくして書いているか らおこることである。 要するに見て書くだけ、形だけにとらわれて書くから 、そういうことになる。 そういう場合に、筆意がつながってないということを 言う。 良寛という人は脱字がある。 もう老人になって、詩を書いても無意識のうちに一字 落してしまうことはある。 けれども、書くというものをきちんと心得ているから 、どんなに崩して大胆に書いても字そのものは読み取 ることができるのである。 また長い詩などの場合、真贋を知るには、行の中心線 が垂直に貫いているかどうか。 贋作は手本を見ながら書くから、行の中心線が揃わな い。 右に行ったり、左に行ったり。 行間も不揃いになる。 良寛ならどんなに乱暴に書いても、行の中心線は整っ ているはずである。 それと模写する場合は、二行目以下の行頭が左に移行 するにしたがって下ってくる。 本来は、各行の行頭は常に水平でなければいけない。 ★因みに・58ページに図示した・贋作の巻良寛は敷き 写しである。 これを初めてみた時、私は、どうも写しのような気が してならなかった。 ところがそれから数年たって、「良寛の書を売りたい という人がいるので、いいか悪いか見てほしい」・と 頼まれたことがあって見てみるとなんとそれが巻良寛 の原本だったのである。 私の薦めでそれを買った人が、後になってやはり心配 になったと言ってきたので、私は説明しであげた。 「これをごらんなさい。あなたのものの字のまわりに 墨が滲んでポツポツ汚れているでしょ、この上へ別な 紙を置いて書いたですよ」・と。 ★天井から筆を吊り下げて書く、という話を聞いたこと が有る。 越後に良寛の書を非常に敬愛した人がいて、一生懸命 良寛の書を習おうとした。 良寛の筆は、暖かく見える。 筆圧というのは、筆をかたく握って描く人と軽く持つ 人、先を持って書く人と、根元を持って書く人、人に よってそれぞれに変わってくる。 良寛の字は、私が見るところでは、割に軸の高いとこ ろを持って書いていたと思う。 高いところを持って書いていたものは、筆圧がどうし ても緩く見える。 実は直筆で書くということは、筆の穂の先の腹を隠す から非常に強いのだけれども、それが見方によると筆 圧が緩いように見えがちである。 手本に一生懸命似せようと思えば思うほどに、筆圧が グイグイ加わるから太い線しか引けなくなる。 それを防ぐには、筆管に糸を結んで、天井から筆を吊 り下げ、穂先を紙すれすれまで近づけて、糸の張力を 利用してひょいひょいと書いていけば、良寛の書風に 近い書が再現できるというわけである。 ★私の経験から考えて、明治にはまだそれほどたくさん の贋物は作られてはいなかったと思う。 良寛の存命中に。「ねせもの」・があるといっても、 それはほんの特殊な例であって、何人も贋作者がこぞ って真似たというものではなかったと思う。 ★原田勘平さんが分類した九種類の贋作というものは、 すべて大正期に入って良寛の評価が定まってから、良 寛の書を求める人が多くなってから作られたものだと 思う。 今日では良寛の研究が進み、良寛遺墨の真偽が大体分 別されてきているので、今後は贋作を新しく作るとい うことは困難であろう。 第一、紙を古くすることなどで、できはしない。 もし考えなければならないとしたら、それは昭和初年 頃に作られた、いわゆる・”巧芸版”・と呼ばれる精 巧な複の問題である。 昭和の初年というと、もう5・60年たっている。 そうすると、表装も本紙の味わいも、それ相応の時代 色がついているから、一見したところでは古く見える のである。 その巧芸版に新しい箱をこしらえて、箱書をしてくだ さいと持っていくということはあり得ると思う。 その場合の見分け方は、日に透かして見ると、墨が非 常に平板である。 印刷のインキだから、濃いところと薄いところとの差 がでないわけである。 ★箱書きの話をすれば、たとえ箱書きがついていたとし ても、これはおかしいと思われる場合が少なくない。 箱を書く人に眼識がなければ書いてしまう。 箱を書くということ自体、それによって何かの報酬を 得ようという気持ちがどこかにある。 安田靫彦先生などは、お金を受け取らなかったと思う けれども、他の人達はやはりそれによる報酬というも のをある程度は期待するわけで、多少なりとも目が甘 くなる。 だから、良寛の箱書きを書いた人は何人かいるものの 、その人たちが亡くなった後は、その箱書きを削って いる。 そういう人たちの箱書きがあったらかえってまずいか ら削る。 いいものに書いてあっても、この人の箱では通ないと いう場合が多いのである。 **(本特集に図版掲載した良寛遺墨の釈文は・ 小島正芳氏・小松茂美氏・他・によった)** ―”贋作の見分け方”― ★贋作は、字行の中心線に、乱れが見える。 一字一字の、字形が、体をなさない。 また、二行目以下が左下がりに移行するのは、原本に 目がひかれるための欠陥。 **”(3点の対比)”** ◆贋作・巻良寛・(125×31.5)。 ◆贋作・(100×29)。 ◆真蹟・(128×45.5)。 ・東京国立博物館。 ―”署名比べ”― ★贋作は、『沙門良寛』・の・『沙』・の一字を辿っも 字形をなしていない。 **”(3点の対比)”** ◆贋作・巻良寛・(右頁・右図)。 ◆贋作・(右頁・中図)。 ◆真蹟・(扇面)。 ―”良寛の弟・山本由之の書”―。 ◆良寛の弟・山本由之の書。 ・石田家蔵。 ★良寛の影響を受け、その書風は兄に類似す る。 ―”真っ赤な偽物・”柏崎良寛”・の真筆”―。 ◆贋作・柏崎良寛。 ・とんちン館。 ★「僕の郷里は越後であるが、越後には良寛の偽 物を書く者が三人いるということだ。 僕の知合にも一人の良寛書きの名人Y君がいる 」・と言ったのは、かつてNHKのとんちん教 室のレギュラーを勤めた故石黒敬七氏である。 続けて曰く、「この男の良寛は相当数真物とし て日本中に流布しているようだ。 というのは、東京の一流百貨店で良寛遺墨展と 銘うった展覧会があった後に、そのY君が上京 して拙宅に一泊した。Y君は展覧会の目録を見 ながら・これもおれのだ、これもおれのだと指 す。 その数は一枚か二枚頁をめくると一つでてくる 位多く、こんなに多く、Y良寛が世のにでてく るとしたら、うかつに良寛など買えないと思っ た。 十年程前、Y君に三十円だか五十円だかを送っ てこれで良寛を書いて送ってくれといったら、 一週間程度に真物と変わりない良寛が送られて きた」・(石黒敬七著・『旦那の遠めがね』・ より)。 ここに登場するY君とは、「柏崎良寛」・と呼 ばれた・「巻良寛」・「地蔵良寛」・と並ぶ。 その筋では名の通った偽良寛作者の大御所らし い。 石黒氏は珍品蒐集家として有名であるが柏崎良 寛にはそのコレクションを一堂に展示した・と んちン館・(柏崎市青梅川)・がある。 その一角・”びっくり真贋コーナー”・に・「 国定忠冶の道中合羽と三度笠」・「大石内蔵助 愛用の椀」・などと並んで、この良寛の書が掛 かている。 右は、そこに添えられた一文であるが、これこ そまぎれもない、柏崎良寛による真っ赤な偽物 なのである・(編集部)。 ●資料・蒐集などの・参考に・・・!! ●探されていた方は・この機会に・・・!! ●以下・詳細をご覧ください・・・!! ◆掲載案内は・抜粋して下ります。 ◆掲載内容は・Q&Aより・問い合わせ下さい。 ◆数字記載は目視です・間違いは御容赦下さい。 ●掲載を抜粋紹介し・「タイトル」・と致します。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ■■『名品を味わう』・・・■■ ★人目に触れることの少ない逸品中の逸品を床に掛け、 窓辺にくり広げて味わう・”我が家”・の良寛!! ★鮮やかな黄色い、しけ絹の表具が、楷・行・草の調和 し生活を寂した。 ◆五言律詩・『寒夜空斎裡』。 ★良寛晩年の逸品を貼り交ぜにして大矢家に伝わる。 ◆『漢詩屏風』。 ★所々に点が散りばめられて、抽象絵画のようにも見え る、草書の。 ◆『漢詩屏風』。 ・何必館。 ◆横二字・『道好』。 ・何必館。 ★戒の項目を書きだした・『戒語』・は、各種伝わって いるが、多くは言葉使いに関する教訓で人間の在り方 を言葉によって律してか良寛の考え方がよくわかる。 ◆『こころよからぬものは・・・』。 ・何必館。 ★神号・『南無天満大自在天神』・には逸話がある。 村人に字を頼まれて、意地の悪い人にはわざと・『在 』・の字を抜かし、親切な人には・『在在』・と・い まけしたという。 ◆神号・『南無天満大自在天神』。 ◆神号・『南無天満大自在天神』。 ・何必館。 ★病床に伏して、苦しさで夜も眠ることができないとき に書かれた晩年の傑作。 ◆七言・五言詩・三篇・『冬夜長』。 ★のんびりと読書をしている良寛さん。 ◆自画歌賛。 ★良寛の絵画作品は、十点ほど知られているが、そのう ち犬の絵は二点。 ◆『狗の絵』。 ★晩年の良寛の書は、楷書・草書・かな・それぞれに独 自の境地を深めていく。 ことに楷書のそれは、ますます線が細くなり切りこむ ような鋭さをもちながら、見た目には素朴でやわらか い印象を与える。 ◆短歌・『父の書けるものを見て』。 ◆断簡・『易に曰く錯然は則ち吉なり』。 ★『蛾眉山下橋』・と楷書で刻まれた、中国題蛾眉山の 道標ともいうべき橋杭が、越後宮川に流れついて、当 時大変話題になった。 良寛も実際見にいったのだろうか。 ◆七言詩・二篇・『題蛾眉山下橋杭寒夜空 斎裡』。 ★鈴木文台に書き与えた詩。 ◆五言詩。 ◆他・・・・・。 ■■『良寛みち』・・・■■ ―”騰々天に任す”― **”栗田勇・(作家)”** ★出生の地・出雲崎や諸国遍歴の末に住みついた・国上 山・五合庵。 ★良寛が生きた風景を・グラフで堪能しながら・村里の 日々の暮らしの中に悟りをひらいた天真の人・良寛の 姿を探る。 ―”序章”― ●『闇に降る雪』・・・● ―”第一章”― ●『五合庵にて』・・・● ―”第二章”― ●『良寛の帰郷』・・・● ―”第三章”― ●『飜身の機』・・・● ―”第四章”― ●『大愚良寛』・・・● ◆良寛が茶を楽しんだ・原田家茶室。 ◆良寛刻字・『心月輪』。 ★良寛の支援者解良叔問邸で、桶屋が蓋を作る のにうっかり裂け目をいれてしまったのを見 て・それを活かして字を書いたもの。 ―”第五章”― ●『大愚良寛』・・・● ◆良寛終焉の地・木村家。 ★文政9年・(1826)・69歳になった良寛 は長年住み慣れた国上山を離れ島崎の木村元 右衛門宅に移り邸内に庵室を結んだ。 追いの目立ちはじめた良寛をみかねた元右衛 門の勧めによるという。 現在木村家には・「愛語」・をはじめとする 良寛晩年の多数の遺墨が残されている。 右は庵室跡。 ―”第六章”― ●『天上大風』・・・● ―”エピローグ”― ■■『良寛と私』・・・■■ ●安田健一・(中央公論美術出版専務取締役)。 ―”父靫彦の生命の撚り所”― ◆安田靫彦愛蔵の書簡・「山田杜皐老宛」・(地震 の事)。 ●白洲正子・(作家)。 ―”なにもかも吹き飛ばす・『天上大風』”― ◆子供に頼まれて書いた凧文字・「天上大風」。 ★若い頃・良寛の書がほしくて、ずい分探したこと がある。 私の場合はなりふり構わず駆けずりまわって、良 寛々々と呼ばわるのであるが、ある時・「天上大 風」・の書に出会って、釘づけになってしまった。 以来、良寛を探すことはふっつりあきらめたが、 大騒ぎをするかわりにあきらめも早いのである。 だから私は良寛の書を一つも持ってはいない。 当時は少々奮発すれば帰る程度の値段で、時には 心を動かされるもないではなかったが、その度ご とに・「天上大風」・が目の前に現われて、何も かも吹き飛ばしてしまうのであった。 それほどはじめて見た時のショックは大きく、い まだにそれはつづいている。 私は良寛の書をこよなく愛しているので・「天上 大風」・を知らずに終わったら、こんな思いをし なくても済むと悔やまれるほどである。 由来書によれば、ある日彼が燕の街を歩いていた と頼んだ。 何にするのか訊いてみると、凧を作るから・「天 上大風」・を書いてほしいといったので、その場 で書いて与えたという。 よく知られた逸話であるが、良寛はみだりに字を 書くことを嫌ったから、子供の頼みとあればよも や断りはすまいと思って、大人がダシに使ったの ではないかという説もある。 紙をしらべたところでは、凧に用いたという形跡 は一つもないそうで、空高く上がりたかった・「 天上大風」・は、むなしく掛物か何かになって床 の間に飾られていたかも知れない。 だまされたのは良寛でなくて、気の毒な子供の方 であったと思いたいが・「天上大風」・などとい う字がとっさに浮かんだのはだました大人や子供 ではなく、良寛自身であったに違いない。 そういう刺とした命がこの書にはこもっている。 ・(以下略・・・)。 ●宇野信夫・(製作家)。 ―”心で描く良寛像”― ●小島正芳・(良寛研究家)。 ―”感激!晩年の名品尽くし屏風”― ●小山五郎・(三井銀行名誉会長)。 ―”少年の頃から愛誦した詩”― ◆芥川龍之介も愛した五言対句・「君看双眼色」。 ●黒田和哉・(黒田陶苑社長)。 ―”良寛と魯山人の暗合”― ◆良寛を敬慕した北大路魯山人の・「良寛詩臨書」。 ◆茶会に懸けれれていた和歌・「父の書けるものを 見て」・父以南の筆跡・(みづくき のあと)・を見たとき、年の頃のことが思い出さ れて涙で書がかすんでしまったという。 ◆「良寛を偲ぶ茶会」・で菓子器に用いられた良寛 使用の鉢の子・(托鉢用の応量器)。 ●加藤諄・(早稲田大学名誉教授)。 ―”会津八一先生と良寛”― ●梶川芳友・(何必館・京都現代美術館館長)。 ―”目に焼きついた・「何必」・の二字”― ◆良寛71歳のときに三越三条を襲った地震・(土 波)・は人心の頽廃によるものとするこの激しい 詩の中に・「何必」・の二字があった。土波後作。 ●飯田利行・(元駒沢大学教授・全長寺東堂)。 ―”曹洞宗門を・はみ出た良寛”― ●森田沙伊・(日本画家)。 ―”蒐集六十年の思い出”― ◆「毬の歌」。 良寛としては珍しく墨流しの料紙に書いた・和歌。 ◆書を書いてほしいという依頼を断るために書いた 書・書簡。 ●小松茂美・(古筆学研究所長)。 ―”畳一枚もある・「大天地」”― ★良寛の大字・「天地」・を私が初めて見たのは・藤沢 市の鵠沼海岸にあった秋山順一氏(1892~197 5)の隠居・疎松庵においてでした。 数寄屋造の広い床にかかるその・「天地」・を仰ぎ見 た時・私は思わず息を呑みました。 それは・畳一枚はあろうかという紙・いわゆる全紙に 書かれた・良寛遺墨中最大の筆蹟でした。 仕事柄・私は数々の良寛の書に相対してきましたが・ これに優るものを見たことはありません。 「素晴らしい」・私の讃嘆の声に秋山氏も満足の体で した。 この・「天地」・は・同氏の父上がお若い頃に手に入 れられたものだそうです。 言い伝えによれば・五合庵に棲んでおられた良寛さん が・五合庵の麓のとある農家に立ち寄られた時の事。 農夫が嘆いて言うには・「私のうちは貧しくて・お経 を上げてもらう仏壇を買うこともできません。神棚も ありません」。 そのごまもなくして良寛さんから届いたのが・この・ 「天地」・だったのです。 「神様と仏様を書いてあげたから・これを毎日拝みな さい」。 つまり・天の恩・地の恩に向かって朝夕拝みなさい・ という意味なのでしょうね。 ・略・・・・・。 ◆「天地」・柔らかな枯淡の味わい。 ・101.8×39.8。 ・根津美術館。 ◆「天地」・良寛の遺墨のなかでも最も大きくエネ ルギッシュな字。 ・113.8×51。 ・根津美術館。 ★山本以南・「俳句」。 良寛の父・山本以南も奇抜で前衛的な書を書いた。 ●竹内清次・(古筆愛好家)。 ―”良寛の辞世を手に入れた話”― ◆良寛の辞世と伝えられる・「和歌」。 ◆草書の細字の力作・「秋夜弄月詩」。 ●近藤敬四郎・(全国良寛会会長・元北越銀行頭取)。 ―”良寛を慕う人々が集う良寛会”― ■■『”良寛”・似せ真似史!!』・・・■■ **”小松茂美”** ★上記・参照・・・・・!! ■■『人間良寛を探る六話』・・・■■ **”小島正芳・(良寛研究家)”** ―”第一話”― ●忘れ物の・”名人”。 ◆書簡・「解良氏宛」。 ★解良家に小野道風の版木・『秋萩帖』・(さ ざなみ帖)・を忘れてきた良寛が、心配でな らないから捜してほしいと伝えた手紙。 ◆良寛が所蔵していた・『秋萩帖』。 ・糸魚川歴史民俗資料館。 ★裏表紙・(右)・に良寛は・「おれがの」・ (自分のもの)・と著名している。 表紙・(左)・には丸い小型の文様がある。 ◆右は良寛所有・『秋萩帖』・と同系の版木の冒頭。 左の真蹟の趣からはほど遠い。 ◆携帯品目覚え書。 ★忘れ物がないかチェックするために書いたメ モが、このメモさえ出先に忘れてきたらしい。 ―”第二話”― ●意外な説教好きの一面。 ◆「おかの戒語」。 ★晩年良寛が寓居した島崎の木村元右衛門の娘 ・「おかの」・が嫁いだ時に嫁としての心得 を良寛が書いたもの。 ―”第三話”― ●手まり、おはじき、かくれんぼう。 ◆良寛と子供の交友の場面を書いた・「手まりの図」。 ・糸魚川歴史民俗資料館。 ★伝亀田鵬斎筆・賛は良寛。 ―”第四話”― ●物ねだりの手紙。 ◆書簡・「浄玄寺宛」。 ★足袋を贈られた時の礼状・木村家蔵の貼り交 ぜ屏風のうち。 ◆書簡・「菓子屋三十郎宛」。 ★最晩年衰弱がはげしくなった良寛が滋養に富 む菓子をねだった手紙・木村家蔵の貼り交ぜ 屏風のうち。 ―”第五話”― ●女性とのみずみずしい交流。 ◆書簡・「徳充院宛」。 ★徳充院は維馨尼のこと。 近年発見された良寛の五合庵時代、文化4年 の手紙で、維馨尼との交流がかなり早くから あったことがわかった。 ◆書簡・「維経尼・(維馨尼)・宛」。 ★文政元年、江戸へ勧進に赴いた病弱の維馨尼 を思いやって送った励ましの手紙。 ◆貞心尼・「蓮の露」。 ★この歌集には良寛の歌や、貞心尼と二人で詠 みかわした唱和の歌も多く収められている。 ・柏崎市立図書館。 ―”第六話”― ●良寛の病死は何だったか。 ◆「和歌」。 ★文政13年の暮れ、病がいよいよ重くなった 頃に詠まれた短歌。 筆使いもふるえている。 ◆書簡・「守静老宛」。 ★友人の医師に陰金田虫に効く軟薬を恵んでく れるように頼む、一界の・「貝」・を書いて いるところがユーモラス。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ■入力のミスはご容赦下さい。 ■他の出品も・是非・御覧下さい。 ●●入札案内●● ■状態はすべて点検済ですが、 ■見落し等が無いとは言えません。 ■見解の相違も御座います。 ■御了承・御理解の上・入札下さい。 |
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