日本家紋大鑑
能坂利雄 (編著)
新人物往来社 発行
昭和54年初版
438ページ
約27.5x19.5x3.4cm
函入 布張り上製本
※絶版
日本最高・最大の家紋集成!収録紋章7300余点
家紋のルーツを解明!
シルクロードをラクダで越えてきた家紋の原型。騎馬民族の馬とともに海を渡ってきた家紋の素形。稲の来た道に家紋の歩んだ道をたずね、いま該博な東アジアの古代史を駆使し、民俗学的視野から家紋を解明する。(刊行当時の情報です)
武士の甲冑、武具などに見られるような紋章各種別ごとに分類整理、詳細な解説、家紋についての論考、代表的な家紋姓氏の分布図はもとより、家紋総説も今となっては非常に有意義なもので、内容充実の大変貴重な資料本。
【目次】より
日本家紋総説
望郷的遺産としての家紋
家紋の意義
氏姓の乱れと家紋
家紋起源の諸説
公家紋の遙かな故郷
文様から武家紋誕生まで
藤原氏の代表紋
源平の代表家紋
将軍家の家紋
家紋の時代的推移と概況
家紋の地域的分布
●家紋の表現
文様紋
名字(苗字)紋
吉祥紋
記念紋
尚武紋
信仰紋
神道紋
仏教紋
切支丹紋
儒教紋
禁呪紋
●家紋の分類
天地象紋
植物紋
動物紋
器具紋
建造物紋
図象紋
文字紋
図符紋
●家紋の改造と構成
家紋主章周辺の改変
家紋の外郭円
家紋の変形輪
家紋の外郭角
本章の改変
本章の配列
変形と擬態紋
●武具紋あれこれ
武具の家紋
刀剣の家紋
弓矢の家紋
馬具の家紋
牧馬にみる烙印紋
●家紋の転用
定紋と替紋
本家紋と分家紋
家紋の法令
家紋の寸法と経済の盛衰
衣服の家紋
多色染めの紋
武士と庶民の紋
●庶民と家紋
百姓の組紋
町の紋
数多い優美紋
鏡の家紋
紋切型の紋
凧の紋
川柳や狂歌のなかの家紋
●建造物と家紋
屋根瓦にみる家紋
建築物にみる家紋
墓標と位牌の紋
幻の紋
使用者不明の紋
家紋の参考書
その他の紋章
都道府県市章
神社紋
寺院紋
歌舞伎紋
代表姓氏家紋分布図
あとがき
【紋章と解説】 あ行 葵 麻 朝顔 蘆(葦・葭) 網・網目 粟 阿倍晴明判 庵 筏・花筏 碇(錨) 石畳(甃) 虎杖 板屋貝 銀杏 井桁 井筒 糸巻 稲 稲妻 兎 団扇・軍扇 馬 梅・梅鉢 鱗 海老(蝦) 烏帽子 円相天地 扇・櫓扇・地紙 折敷 沢瀉 か行 貝 櫂 舵(楫) 垣 鍵 柿 杜若 額 鏡 籠目 角 角字・字 笠 傘 梶の葉 柏 霞 裃 酢漿草(片喰) 羯磨・独鈷 金輪・釜敷 蟹 蕪 兜 鎌 亀(玳瑁) 唐花 鳥 雁金 環 桔梗 菊・菊水 亀甲 杵 杏葉 桐 釘抜 九字 葛の花 梔子 轡 雲 久留子 胡桃 車 鍬形 剣 源氏香 笄 河骨 琴柱 独楽 将棋駒 三味線駒 五徳 さ行 桜 笹・竹・竹に雀 猿 算木 鹿角 歯朶 七宝 蛇の目・弦巻 棕櫚 水仙 頭巾 杉 直違 炭・墨 菫 雀 鈴 薄 洲浜 井田 銭 た行 大根 太極図 鷹・鷹の羽 宝結び 橘 宝珠(玉) 縢(千切) 千鳥 茶の実 蝶・胡蝶 丁子 提盤(打板・雲版) 月(月星) 蔦 槌 鼓 鶴 鉄線花 唐辛子 巴 鳥居 蜻蛉 な行 梛の葉 梨(祟) 茄子 薺 撫子(瞿麦・石竹) 浪(波) 南天 熨斗 は行 盃(杯)・ほいのし 萩 蓮 鋏 羽根 羽子板 梯子 芭蕉 旗 鳰 羽箒 蛤 半鐘 日・日足 柊 引両 瓢(瓢箪) 菱 唐花菱 袋・砂金袋 藤 文 葡萄 船(帆掛船) 分銅 幣 瓶子 鳳凰 牡丹 寓生 ま行 的 鉞 枡(升) 松 豆造 守・祇園守 鞠・鞠挾み 卍 茗荷 百足(蜈蚣) 目結 文字 木瓜(棄・瓜) 楓(紅葉) 桃 や行 矢 矢筈 矢尻(鏃) 山 山形 山の字 山吹 結草 結綿 夕顔 雪・雪の輪 曜星 弓 ら行 蘭 竜 輪鼓 竜胆・笹竜胆 輪宝 蝋燭 六葉 わ行 輪 輪違い 鷲 蕨
【望郷的遺産としての家紋】より一部紹介
戦後は日本家族制度の崩壊によって従来までのタテの歴史は断たれ「家」の単位は夫婦となり核化した。伝統は否定されたのである。時日が進むにつれ、急激に経済が成長し、高度の文化が伸展すると、若い人々は中央集権的風潮をさらに助長するように競って都会へ集中し、伝統の上における自己否定へ拍車をかけた。自分を忘れ、ジャズに酔うことが最新の文明だとさえ錯覚した。自分とはだれなのか、それさえ知らなかった。ましてや故郷と自分をつなぐ糸にさえ嫌悪感をむき出して、家との関連を絶つものが多かった。とにかく忘れたかった。忘れていることが封建的でない人間なのだと自他ともに許した。
しかし音もない狂奔の嵐がしずまると、互いにそそげ立った気持ちもおさまり周囲を静かな目で見渡す余裕ができてきた。マイホームをつくり生活も安定してきたからである。忘れ去られた伝統と家に対する認識を求めようとする傾向が次第に深まり、故郷の山河に対する情感もきわめて素直なものとなった。家のシンボルともいうべき家紋への関心がたかまって静かなブームを呈しているのも、そのあらわれとみられよう。故郷を離れている大びとがいだく望郷的心理現象であった。
ふりかえってみると、一千有余年にも及ぶ伝統にささえられてきた家紋こそ、祖先が後世に造形して伝え来たった偉大な遺産であった。少なくともそれは名ある人の創作というのでなく、無名の人々が次から次へと手を加えて洗練し、時代的知恵が加わったものである。したがって世界に誇る洗練された独創性の家紋には別段の美しさが溢れ、各パターンの発生にまつわる伝説も、神異邦あり、英雄譚あり、奇瑞現象があったりして豊富である。かつて室町期には四、五百個と推定された家紋も、今日では八千個あまりは優にあるであろう。これは姓氏の分流と重大なかかわりがあった。
以下家紋に対する基礎的な各要項を掲げ、わが家の紋章への手引きに役立てていただければ幸せである。
【家紋の意義】より一部紹介
日本における家のシンボルとして、古くは名字(苗字)とか称号(公家は名字といわず称号とよぶ)の目印に、白黒のデザインであらわしたものを、紋章、または家の紋章を略して家紋とよんでいる。しかしそれ以前白黒ばかりでなく、カラーで表現したこともある。この詳細は後の別項でも記すが、白、赤をはじめ村濃、下濃、黄紫紅、水色その他があって、たとえば水色だけでも桔梗を示したが、時代の推移にともない、やがてデザインで白黒の枯梗を描くようになった。つまり色彩のものを使用した頃はデザインがなかった。デザインが生まれるようになると色彩は失われていったのである。
初期の家紋をみると、リアルな絵図のものが多く、どちらかといえば不整形で、非対称的な図象が多かった。しかし時代が降るにしたがい、家紋の発達するにつれて、次第に洗練されいわゆる紋切型ともいうべき、端正で対称的なものへと昇華した。しかしここでことわっておかねばならないのは、家紋は姓の印でなく、氏族の名字、公家の称号の目印だということである。つまり大姓の標識でなかった。むしろ大姓のなかから、互いを識別するために発生したと考えたほうがいい。
名字(苗字)とは名田を領有する在郷地主が、家の子とともに開墾し名主として新たな拡張、または支族的成在一を示す場合、拠点とする名田の地名を苗字とすることから生まれる。そのほうが覚えやすかったのである。たとえば、足利とか三浦とか熊谷などのように地名をもって家名に宛てたほうが便利でもあった。元来名字はその人一代を小したものであったが、やむなく転地して名字を変更した場合もあったが、時代の進展とともに次第に家名としての定着をみ、世襲された。(詳細は拙著「姓氏の知識100」参照されたい)こうした風潮のもとに、領有する土地の所有権を誇示するため家紋の存在もきわめて重大な意義をわきまえるようになった。土地所有権が世襲されると、家紋もまたこれに従属したのはいうまでもない。(後略)
【葵】より一部紹介
元来、葵はウマノスズクサ科に属する植物で、フタバアオイとかカモアオイの俗称がある。しかし平安時代における衣服の文様に登場する小葵は、俗に天竺葵とよばれたもので、明瞭にいえば別種。ところが別種の旧い葵が看過されるようになったのは、賀茂信仰が隆昌するにつれ、いつの間にかこれら両者の混同が激しくなって、フタバアオイがついに本義の葵を圧倒したからによる。貿茂明神の神草が文様から紋章の世界に乗り出してきたのである。
家紋としての葵は「見聞諸家紋」に見え、丹波国船井郡の豪族西田氏からと伝えている。周知のように同書は一名を『東山殿御紋帳』ともいうように、室町幕府八代将軍足利義政のころ(略)賀茂妃神の出自を物語る神話群が丹波地方に多く、西川氏の所領内に下鴨の宮とよんでいる神野神社があった。祭神は賀茂建角命の妃イカコヤヒメ。この地方には奈良朝期すでに賀茂祖神の神戸奉納の記録があり、平安後期には丹波厨料の設置されたことからも賀茂信仰の古さを物語っている。
戦国時代では三河地方の本多、松平氏らが葵紋を川いたのも賀茂信仰からであった。では徳川氏占用紋となった経緯はどうか。むろん徳川氏は松平氏から生まれたものだが、松平氏は始祖から葵紋を用いていたかは疑わしい。系譜上で源氏の出自を称しているのも根拠があいまいである。永禄九年(一五六六)十二月三河国統一を図った徳川家康が、松平氏から徳川氏に改姓を朝廷に願いでて三河守となった。このとき(後略)
【編著者略歴】
能坂利雄(のうさか・としお)
1922年(大正11年)富山県氷見市に生まる。
1944年富山師範(現富山大学)卒。家業の漆芸品で商工展(日展前身)入選。また古代史および民俗学を学び,地方祭祀の採集・研究に従事。主要著書『日本史の原像』「家系と家紋」「前田一族」「継体天皇の謎」「富山県人」「家紋の知識100」「姓氏の知識100」(新人物往来社)他。